「生きてるって感じがする。」それがいちごがり写真館まるかじりを訪れた際に感じたことだった。宮崎県日南市の山のてっぺんに、友だちがいちご狩りスポットをつくった。そう知ったのはずいぶん前のことだったのだけど、訪れるのはシーズンも終盤に差し掛かるかというときになってしまった。いちご狩りを楽しむスポットなのに、山の上にある。自動車が必須で、対向車に出くわすとどちらかが道を譲らなければならないような細く険しい道を登る。デコボコ道にドキドキしながらたどり着く先にあるのが、「いちごがり写真館まるかじり」だ。「家族史上、最高の思い出を」という言葉が掲げられたこの場所は、6品種のいちごがり食べ放題と、写真撮影と、皿回しが楽しめるエンターテインメント空間だ。「エンターテインメント」と言ってみた。entertainmentは、語源から考えると、enter-「間の」tain「つかむ」-ment「こと」となり、簡単にいえば「心をつかんで離さないこと」になる。そう、まるかじりは、単なるいちごがりではないし、体験スポットでもない。それは、つかんだ心を離さない空間なのだ。この場所のエンターテインメントぶりは、公式instagramをのぞいてもらうのが一番良い。どんなに言葉を尽くしても表せられないくらいの一瞬がたくさん写っているので、ぜひどうぞ。ぼくはいちごがり写真館まるかじりの意義を、もっと多くの人が知るべきだと思っているし、それについて考えるべきだと思っている。そしてもっともっと驚いてほしい。キーワードは、「遊ぶこと」「生きること」「正しくあること」。この3つをキーワードに、「いちごがり写真館まるかじり」を考えてみたい。「あそぶ」から考えるいちごがり写真館まるかじりを作り上げているのは、「いちごを愛し、いちごに愛された男」たいぴーこと渡邉泰典さんと、茜さん夫婦。メディアにも数多く出られているし、検索すればたくさんヒットするので、お二人のプロフィールや活躍はそちらに譲る。二人を知っている人であれば、夢見がちでトラブルメーカーのたいぴーを、しっかりものでかたちにできる茜さんが支えている・・・そんな構図を思い浮かべると思う。けれど、この空間を語るのに、そんな当てはめやすい二人の関係性でわかった気になるほどもったいないことはない。ところで、たいていのわかりやすい構図なんてものは、理解のためのツールのようなもので、何も本質を捉えていないことが多い。おっと、これは蛇足。ここでキーワードになるのは「遊ぶこと」だ。冒頭でエンターテインメントと言った。日本語のニュアンスで捉えると、娯楽を提供するという意味にとりがちだが、自分が楽しむためにある娯楽という意味もある。だからこの空間を、ふたりが遊ぶための空間ととらえてみたい。遊びを考えるにあたって、遠回りをしてみよう。平安時代末期に編まれた歌謡集に『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』がある。その中にこんな歌がある。遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ特に有名だと思われる前半は、しょせんはかない人間の一生なんだから、おおいに遊びましょう、遊び狂いましょう、といった内容になる。ただしこの「遊び」はただ楽しみのためにする遊びではなかったことを思い出さなければならない。そこには、行きつくところまで行ってしまいたいという人間の必死な思いが込められていて、こういう状態のことを「遊び」とか書いて「すさび」とも言った。スサとは「すさまじい」や「すさんでいる」のスサであり、暴れん坊の神様であるスサノオのスサでもある。「すさぶ」に漢字を当てると、「荒ぶ」となる。この言葉は、いまでも「心が荒んでいた」とつかうように、「荒ぶる」「荒れる」はもちろん、「綻びる」「壊れる」などを指す言葉でありながら、「遊ぶ」という字も当てた。ここで、日本語において、荒ぶと遊ぶは重なることになった。つまり、何かに夢中になることは荒びであり遊びでもあるということになった。まるかじりにある遊びは、荒びとぴったり重なったものなのだろう。遊びの面の極限がエンターテインメントとしての表であるとするならば、これまでの困難と、これからの障害は、荒びの面が同じだけ生じていく結果であり過程なのだ。けれど、だからこそ、ここにあるのは行きつくところまで行ってしまえという決意とも野心とも言える荒ぶった魂と、最高の思い出を提供しようという和する魂の共存であり、それが躍動する遊び/荒びの空間だ。大胆で奇抜なものを前にすると、アイデア勝ちのように思えてしまう。まるかじりも、いちごがりと大道芸を融合して楽しませる点などを指して、同じように捉えられる向きもある。けれど重要なのは、アイデアを価値のレベルまで押し上げ、商品として、体験としてかたちにしていることなのだ。それは、昨日より今日の価値を高めるための準備と実行であり、冷静さと情熱が相まってなせることだといえる。そしてその姿こそ、「あそぶ(遊ぶ/荒ぶ)」と呼ぶはずだ。あなたのための写真と、その意味まるかじりは、構想が実現した場所ではなく、前章で述べたように躍動する遊び/荒びの空間である限り、原理的に現在進行系であることを宿命付けられた空間ともいえる。言い換えれば、ここは場が生きている。思い切って言おう。ここは生が交差する場所だ。今日このときに向けて、いちごが実る。この日のために悪路をものともせず、人が集う。誰と一緒になるか、天候はどうか、どんないちごに出会えるか、どんな瞬間が生じるのか、それは誰にも予測できない。自然も人も、各々の生を全うしながら、今日ここで交差する。生命はいまここに全身全霊で存在しているのだということを実感する。その攻勢な生の瞬間が生まれる。そんな場が、まるかじりだと言える。そしてその一瞬が写真として残っていく。これはもしかすると、家族写真のあたらしいかたちなのではないか。写真家/ライターの大山顕は『新写真論』の家族写真について論じるところで、その変化を歴史的にまとめ「歴史主義」から「芸術主義」への変化に触れ、スマートフォンが普及してもたらしたのは、「脱・主義化」だとして、SNSにあげること前提で撮られる写真となった家族写真について言及している。写真館で撮影されていた歴史主義的な家族写真は、一族のつながりを確認するために親類縁者に対して見せられた。日常の子供たちを撮った芸術主義的な家族写真は、アルバムに収められ家族の中で思い出として振り返られるものだった。現在、スマートフォンで撮影された子供や配偶者の写真は、友人に向けてSNSでシェアされ、その価値は「キュート」か「おもしろいか」で決まる。そんなスマートフォン時代の家族写真に対して、まるかじりで提供されるのは、家族の生そのものの時間の結晶なのではないだろうか。この場で撮られる写真は、思い出でも、友人にシェアしていいねをもらうためでも、カメラロールを彩るものでも、ない。正確にいえば、そんな言い方では足りない。あなた(たち)が、あなた(たち)らしく生きる瞬間。それは記録であり、歴史でありながら、未来につながるスタートなのだ。だからまるかじりの写真は、まず何よりも、あなた(たち)のための写真となる。写真がありふれたものになった時代だからこそ、誰かのためではなく、自分自身が生きるための写真が撮られる場所。そんなふうに言ったら大げさだろうか。いま、ぼくたちは21世紀に入ったというのに、大国の侵略戦争という惨状を目の当たりにしている。連日報じられる映像や写真や言葉たちに動揺してしまう人も多いはずだ。この気持ちはなんだろう。ひとつは、誰しもにとって死が他人事ではないからではないだろうか。死について考えることは、恐怖だし不安だ。そんな死というものに直面する状況にぼくたちは動揺しているのだ。けれど忘れてはならないのは、生も他人事ではないということだ。自分がどう生きるかということは、他者に影響を与えるし、その逆でもある。なぜなら自分や自己と向きあい、成長や変化をするためには必ず他者の存在が必要だからだ。ひとりで生きていけるように見える社会がやってきて、ぼくらはその只中にいる。けれどだからこそ、ひとりで生きていくために他者を求めなければならない時代になったともいえる。ひとりでは自分の境界もわからなくなるのが人間なのだから当然だ。だからこそ、生きている自分を確認するような場が必要だ。そんなふうにまるかじりを見てみることは、決して過大評価ではない。正義を貫くこと。違いを認めること。歩みを止めないこと。新しいことや、想定外なことに挑むと、いろいろな困難がやってくる。人から向けられる目や言葉も変わる。だからチャレンジすることは、そんなものを無視して突き進める人だけに与えられているような特別なものに見えてしまう。「1つの批判を打ち消すためには、20の称賛が必要だ」と言われるくらいに、ネガティブな評価を忘れるのは難しい。さらにやっかいなことに、称賛や応援の声は見えづらい。だから最も避けなければならないのは、批判や否定の声に耳を傾けるあまり、自分を見失ってしまうことだ。人はそれぞれ「正義」があって 争い合うのは仕方ないかも知れないと歌ったアーティストもいるように、正義は対立する。正義という言葉は、意見や考えと言っても良い。だから自分を見失うということは、自分の正義をなくしてしまうことなのだともいえる。正義は対立するし、それが激化すると争いになる。しかし対立をしないために、正義を捨てることと、自分の正義をもちながら、相手の正義を理解しようとする姿勢はまったく別物だ。上記の歌詞はこう続く。だけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ「彼」も、そして「僕」自身も、自分なりの理由から正義をもっている、それはお互いに賛同できないかもしれない、心からの友だちにはなれないかもしれない。けれど、考えは認めてみようという姿勢でいること。この態度こそ、この社会で生きる中で必要な姿勢ではないだろうか。ヨーロッパでは昔から、違った植物をいっしょに植えると互いに相手に影響を与えあうという考え方があった。それぞれが相手にプラスになる場合もあるが、他を苦しめることの方が多いと考えられていた。そんな中いちごは、やっかいな植物の下で一緒に育てられてもおいしい実をつけることから、周囲の悪や不正に毒されずに自己を全うする正義の士にたとえられたのだそうだ。だからいちごは、キリスト教では正義をあらわす象徴となった。そう、いちごははじめから自己を全うする生き方をあらわしているのだ。ここまで述べてきたように、まるかじりとは躍動する遊び/荒びの空間で、数多の生が交差する場だ。そして営むふたりの正義がかたちをなそうとする場であり、訪れた人それぞれの生がスタートする場だといえるのだ。いちごがり写真館まるかじりをめぐってあれこれ考えてきた。ここまで、彼らはめちゃくちゃすごいよということが言いたくて書いてきた。まだ訪れたことがないという人は、ぜひ来年、山を登ってみてほしい。きっと、かけがえのない時間が待っているから。ちなみに、いちごの属名はフラガリアというのだが、北欧神話のフリッグという女神にちなむ。フリッグは、愛と結婚と豊穣の女神。その女神が加護するにふさわしいいちごがり写真館まるかじりは、これからも多くの生の瞬間を溢れさせていくことになるだろう。 いちごがり写真館まるかじり 公式webサイト: https://15photostudio.com/ 公式instagram: https://www.instagram.com/15photostudio/この記事についてこの記事は、ヤッチャの「月に1本更新される本気で遊んでみた」の記事として書かれました。文責は、ヤッチャのオカダタクヤ Twitter: @takuya727。 文中の写真は、ヤッチャの杉本恭佑、オカダ、いちごがり写真館まるかじりを訪れた際に渡邉茜さんに撮影いただいたものを使用しています。引用・参考文献など松岡正剛『日本文化の核心』講談社現代新書, 2020大山顕『新写真論』ゲンロン, 2020ケニー・マクゴニガル『スタンフォードの心理学講義』日経BP, 2016SEKAI NO OWARI 『Dragon Night』, 2014